「ジャンプ」の原田泰造に興奮

映画というのは、はじめから終わりまで、すべてが楽しければ秀作というものではない。長いとダメだとか、短いといいとか、ちょうどよいというものさえも、ひょっとしたらないのかもしれない。ただ、印象に残る何かがあればそれでよいことが、実はとても多く、しかしそのような作品を作る難しさと背中合わせにあるのだと思う。
その点で思い出すのは、韓国映画春の日は過ぎゆく」である。前半は至極つまらない。後半も、さほどしまりがあるというわけではない。ただ、僕はこの作品を、イ・ヨンエの美しさと、ラストの桜並木の長回しだけで評価してもいいと思っている。それだけでもう一度観る価値がある。
原田泰造が初めて主演した「ジャンプ」を観て、ふとそんなことを思った。この作品、カメラの手持ちが多くて、映像がよく回り、よく揺れる。もっとも、これは主人公の心の揺れを表現している部分でもあり、一概に批判はできない。しかし、ちょっとやりすぎている。固定した視点が現れてホッとするのは、まずい。
それから、気になるのは笛木優子だ。僕には高校の演劇部の延長みたいにしか見えなかったのだけれど、あれは作為だろうか。彼女のほかの作品を知らないのでなんとも言えないけれど、作為的でなかったとしたら、よほど韓国の演劇界が水に合ったとしかコメントのしようがない*1
ただ、である。この作品は、ラスト十数分、「五年後」のシーンから始まる、といっても過言ではない。ここからのシーンは、神懸っている。あの大どんでん返しは、原作に依存しつつも、脚色のよさで驚いたし、最後の駅のホームは、すべての映像が印象的だ。主人公がベンチに座ると、その横に、親子が座る。母親は主人公と同じくらいの年恰好。その光景は、どこか「もしも」の家族を想起させる。そして、そこからひとり立ち上がり歩き出す主人公。妻に電話をかけ、娘と話す。そして、幸福の現実に帰っていくのだ、列車とともに。最後はリンゴを頬張ったところでエンドロール。僕が、そうだったらきれいだなと思っていた矢先に、その通りになってくれた。
とにかく、原田泰造の名演技に尽きる。これには心底驚いた。彼は確実に、スクリーンのなかで生きていた。あれはもう原田ではなく、三谷純之輔だった。これが初主演であったという事実を、興奮とともに喜びたい。そして同時に、主演2作目が当分やって来ないことを、願い続けたいと思うのである。これは、決して批判などではないのだ。

*1:言いすぎだろうか。ただし、キャスティングが悪いとは思わない。