崔洋一節に感動の「クイール」とケラ節に困惑の「1980」

ここ数日のバタバタですっかり書くのを忘れていましたが、28日に「クイール」を、1日に「1980」を観てまいりました。もう忘れかけていますので、簡単な感想を残しておきます。

この作品は、決して盲導犬の大切さを訴えるものではない。動物が主人公だからといって、従順な盲導犬の感動的な行動を捉えているわけでもない。実に淡々としており、前半はナレーションの多さに辟易するほどです*1クイールを取り巻く環境も、生みの親、育ての親、訓練士、飼い主の間を行き来し、なんとなく焦点の定まらない感じもあります。
だけど、それでこその崔洋一なんだと思います。あれだけ感動させる要素を大量にぶち込んだ原作にもかかわらず、無駄に泣かせて金を巻き上げようとしないところに、僕は感激しました。
映画の見方が歪んでますが、僕がどうしてそんなふうに観たのかというと、この作品は単なる銭儲けだろうと高をくくっていたからなんですね。もっと撮りたい作品があるけど、そちらは資金繰りに問題があるから、ここいらで散々稼いでおこうとしたのかなと。僕は「黄泉がえり」の塩田明彦を、間違いなくこれだと確信してます。
でも、「クイール」は違ってた。本気で、まじめに作ってあった。だからこそ、崔洋一のちょっとシニカルな感じが出てきちゃう。それがいいんだ。スクリーンの向こう側で、監督が優しい顔して撮ってる様子が浮かんでしまって、そうしたらもう涙が止まらないわけですよ。
それから、飼い主を失ったクイールに、訓練士がこうつぶやく。「あんた、普通の盲導犬だったけど、最高の普通だったよ」。いい言葉だ。ここで、二度泣き。久し振りにやられっぱなしでした。ある意味でお勧めの作品です。
(追記)この作品で感動するためには、過去の崔作品をいくらか観ておくことをお勧めします。崔節が分からないと作品の面白さが半減します。
(追記2)崔監督がキーワード化されていなかったのにビックリしました。とりいそぎ、作成だけはしました。これは使うでしょ、さすがに。

やっぱりケラという人は、あくまで演劇人なのであって、それ以上でも以下でもないのだなと、改めて実感できる作品です。これは映画なんだろうか。演劇をフィルムで取れるように作り変えたというか、いろんな場面やいろんな出演者の登場が可能なようにフィルムを使ったというか。いずれ、なんだかよく分からないうちに始まって、よく分からないうちに終わります。聖子ちゃんカットな蒼井優がえっらいかわええ。それでいいや。満足。ついでに書けば、及川光博が劇中歌を自作自演していました。すごい才能です。
ところで1980年というのは僕の生まれた年。この作品は、僕の生まれる前後の数ヶ月が舞台。で、もうひとつ、森田芳光監督「阿修羅のごとく」も同時代を舞台にしています。この2作品は、同じ時代なのかと疑いたくなるほど、まったく世界が違います。いくらフィクションとはいえ、時代考証にさほどの違和感はなかろうし、つまり、この2つの世界が、(きっと)同じ街に同居していたことになるわけですよね。
この2作品の世界の相違が、バブル後に一層ハッキリ見えてきてしまう。それはオウムですね。オウムの幹部たちに同情できた側と、できなかった側。そして、この2つの世界が対話できたわけではないけれど、歩み寄りと、歩み寄った振りと、当時の若者が年をとったのとで、あたかも融和したかに見えているのが、現代なのかな。そしていまの中高生たちは、「1980」の世界とはまったく違う。「1980」層は、挟み撃ちで犬死するのだろうか。ケラが再びメガホンを取るのなら、現代を舞台にして吼えてもらいたい。

*1:もっとも、盲導犬に関する知識が皆無なので、解説がないとよく分からないという意味合いもあるのだが。