革命は、小銭を持ってる奴のもの

2週間ばかり映画をあまり観られないでいると、観ないとならない作品が山のように溜まってしまう。全体的に低調な映画シーンであれば諦めるのだが、今年の日本映画はベースが高いように思う。90年代後半、映画の人気が復活したころに志した人びとが、次々と開花しているように思う。
そんなわけで、面白い映画をたくさん観ている。ここ最近だと、やはり『告白』は群を抜いている。僕の職場にウェルテルみたいな人がいて、僕はとても困っているのだけれど、後輩たちはあまり困っていないみたいで、映画のなかの教室さながらである。みんな、大人びて、頭もよくて、国際力みたいなものは僕の世代よりずっと長けているのに、根っこのところでなにかがぽっかり抜けている。「まず、人間であること」のようなものが足りない。先輩にそう言ったら、「お前だってそうだった」と言われたけど。監督の目は鋭く、的の真ん中を貫いた。
ほか、『孤高のメス』は静かで押し付けがましくない重厚感がいい。成島監督は丁寧で、いつも安心して観ていられる。『築地魚河岸三代目』の続編も見たかったものだ。『FLOWERS』は大して見るべきものはないが、脚本ありきで始まったわけでないはずの無茶な企画で、監督はよくまとめたと思う。映像も面白いが、「っぽい」の領域でしかないのは仕方ない。懐かしく観るものではない。『アウトレイジ』も面白かった。ほんとに悪人だらけで、順調に悪を積み重ねる様は見応えがあった。さすがだ。
さて最後に、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』について書きたい。ここのところ、負の世界を舞台にした映画がいろいろとあるが、この作品もどっぷりと負の世界だ。この国がまだ中産階級ばかりになる前、革命を目指した人たちがいた。本を読む限りでは、彼らは苦学生というわけではなかったようだ。本当に生活に困っていた学生は、運動には参加しなかったという。あるいは90年代、理工系出身の若者たちが化学テロを起こした。彼らにしても、下流ではない。
ところが、ケンタもジュンも、下流である。彼らは完全に生きることに行き詰まり、「ぶっ壊して」新しい世界にたどりつこうとする。でも、できない。壊しても壊しても、変わらない。結局、彼らに革命は出来ない。そもそも、その革命は虚構だ。それでも虚構を貫くには、小銭と身分証明書がなければならない。それがないから、諦める。革命は、小銭を持ってる奴の所有物でしかない。
作品には、彼らから見た中産階級が何度か登場する。少年のケンタ君がスクーターで突っ込むパトカーの警官は、生活の安定を保証された身分で、大切な兄を連行していく。仙台で出会ったキャバクラ嬢は、水商売をする必要がない身分でその世界に入り、無邪気に裕福な生活を送る。焚き火に集まって遊ぶ若者たちは、ケンタとジュンが汗水たらして稼いだよりも多くの仕送りで生きているのかもしれない。最高ではないが最低でもない現状に満足している人びとは、ケンタとジュンを絶望に追い込んだだろう。
そこまではよかったのだが、監督はラストでファンタジーに昇華させてしまった。中途半端に幸福を提供してしまったのではないか。それが残酷に見えた。その点で、とことん悪を貫いた『アウトレイジ』や、とことん復讐を貫いた『告白』は、逆説的に見る側に幸福をもたらしている。
(最後に)まさか多部未華子キャバクラ嬢を演じるとは。しかも痛いことこのうえない。多部ちゃんにはもう少し別の演出をつけてほしかった。そして、なにゆえ実家が老舗の和菓子屋なのか。監督は多部ちゃんが好きなようだ。