同居人、ダム

しつこいが、昨晩の続きをいくらか書かないと次には進めない。
宿は3人部屋。ドアを開けたすぐ2段ベッドがあって、一番奥にもうひとつベッドがある。その奥の窓際が僕のベッドになった。同居人は、オーストラリア人とギリシア人。しかしギリシア人のおとなしそうな好青年は、その日の深夜のバスに乗ってしまうそうで、程なく消えてしまった。午前2時にモスクワ行きの列車が出るそうで、そのあとはインドに向かうという。いわゆるバックパッカーである。そして唯一の同居人となった、このオーストラリア人が、この旅の異様なインパクトと化す。
彼はダムと名乗った。見た目はおっさんだが、僕とそんなに年齢が変わらない気がする。僕だって歳相応に見られることがないから、お互いがお互いを「そういう目」で見ていたのかもしれない。ダムは無駄に陽気で、無駄によくしゃべる男だ。しかしとても残念なことに、僕はあまり英語が出来ない。なので、あらゆることがなんとなく聞き取れ、こちらからもなんとなくしか伝えられない。
ダムはオーストラリアの政治の話をしていた。オーストラリア人は太っているが、いまの首相はそれを断つべくがんばっている(らしい)。そしてブッシュ批判とオバマ支持について語っていた(らしい)。実は彼も今日、つまり1月2日にモスクワに行くのだという。滞在して観光するらしいのだけれど、よく分からなかった。何度同じ話をさせても、いっこうに聞き取れない。それでもあきらめる気のないダムが立派である。

(ダム君。普段は上段にいるくせに、寝るときだけ下段に移住してくる。)
彼は独身だそうだ。姉だか妹だかがいて、彼女はもう結婚していて、子供が2人。この子供らに「まだ結婚しないのか」と聞かれるという。そういうときは「Soon, soon, soon.」と言って逃げるのさ、とのこと。当分結婚できそうにない顔をしている。そのことにはいくぶんコンプレックスもあるようで、永坂は結婚しているのかと聞く。ノーと答えると、ひとこと「エクセレント!」。兄弟はいるのか、妹がひとりね、結婚しているのか、ノー、「エクセレント!」。この調子だ。
散々話したあと、ダムはウォッカを一杯ご馳走してくれた。お菓子もくれた。歯を磨く前ならもっとよかったのだけれど。「俺の話を5分も聞いてくれたお礼さ」(らしい)。5分どころじゃなく付き合った気がするけど、そういうことをいちいち気にする男ではないだろう。
ところで部屋のなかは絶えず、なにか臭う。鼻を慣らすまでのあいだ、かなり苦労するレベルである。おそらく食品由来の、しかも長いこと部屋のなかにこもってしまった空気がある。
その原因がダムであることはいささかの疑いもなかった。旅慣れている、と言えば聞こえはよいが、部屋備え付けの共同冷蔵庫には、彼が調達してきたパンと卵とチーズが入っている。それ以外にも先ほどのウォッカをはじめ、ビールやら魚の缶詰やらを買い込んでいる。お腹が減ったらいつでも食べていいと言ってくれたが、遠慮申し上げたい。1ヶ月も滞在するのなら同じことをやっただろうけど、ショートトリップの身としては、外食でいいから、庶民が食べているもの、それそのものを食べたい。食パンに卵と缶詰の魚を乗せるぐらい、日本でも出来る。日本には缶詰がそのまま出てくる居酒屋だってあるんだぞ、という問題でもないか。

(写真に写っているものすべてがダムの所有物)
もうすぐ朝9時。この国の9時は暗い。日の出前なのである。当然、みんなまだ寝ている。ダムはノーパンで寝ている恐れがある。いま一番の問題は、彼がノーマルかどうか、ではないだろうか。
昨晩、宿に到着したときにいたおばさんは、12時ごろに帰宅して、8時にはまたやってきて、いまは掃除をしている。この宿のなかで唯一勤勉な人間である。ここは家と半々の民宿みたいなものなのかもしれない。4棟の集合住宅が四角を作った団地のようなところの、1部屋がこの宿になっている。あとは普通の住居のようだ。

(宿のある建物を中庭から撮影。左は宿のある棟への入り口。右は外の世界へとつながる通用口。)
おばさんは黄色い毒々しい洗剤をバケツに入れて、モップがけをはじめた。強力そうな液体だ。たしかにダムの部屋の使い方を見ていると、そんな洗剤も必要な気がしてくる。あっという間にバケツのなかは鶯色になった。どんだけ汚れているのか。それにしてもおばさんはよく働く。
ダム、まだ寝る気か。もうすぐ9時半だぞ。イビキ、オナラ、クシャミの3拍子を揃えている場合ではない。またクシャミしたな。そろそろ腹ごしらえに出かけたいのだが、部屋を明るくするのも悪いし、どうしたものか。ところで君はどうしてベッドをふたつ使うのだね。
誰の時間感覚を参考に生活していけばいいのか、まったく分からない。