悲しみなき絶望 『カインの末裔』

母親を殺して少年院にいた棟方(渡辺一志)は、そこを出ると、川崎の工業地区「夜光」の小さな工場に雇われる。経営者の大森(飯田孝男)は脳を患って一線から退き、いまは毛(古田新太)が仕切っている。そして時折現れる松村(田口トモロヲ)。彼はこの一帯で怪しい宗教活動をしており、日曜日の集会を開いている。ある日、棟方は松村に呼ばれ、リモコン型のピストル製造を頼まれる。棟方にとっては小金を稼ぐチャンスであったはずなのに、労は報われず、逆に幾人かの死にかかわることになってしまう。
とても面白いと思ったのは、明らかに絶望的で、はっきり言っていいことがひとつもないストーリーなのに、それによって僕が苦しくなるでもなし、実にさらりと受け止められてしまうということなのだ。それはなにか耐性がついたからではない。そこがまさに「カイン」に由来しているのだろう。カインはアダムとイブの子供で、弟のアベルを殺したことで、生きる地を追放されてしまったのだそうだ。ついでに言えばカインは鍛冶屋という意味があるが、棟方は毎日ハンダ付けをしている。報われない生き方をし、報われない所業をしでかし、報われない監察をされ、それが終わってもまた報われない。そのことが、あまりに納得づくなのだ。
川崎の街が、絶望感を説得しすぎている。なにか対比する風景や人物があれば、比較によって絶望を強調し、観るものに感覚を植えつけられるのだけれど、この作品はすべて工業地帯の風景で成り立っており、その外はなにもない。ずうっと先にあるマクドナルドで働けるものは、この場所では働かないという台詞まで用意されている。棟方は夜光に同化していて、余所者感がまるでない。棟方が棟方の運命で生きること以外、考えようもない。
いや、余所者感がないという言葉には注釈が必要で、本当は結構に余所者だ。他人にそう見えていないだけで、棟方は夜光での日々と常識を了解したわけではない。初めて集会に参加し、半ば強制的に献金をさせられてしまった後日、村松の娘(楊サチエ)が棟方の部屋にバースデーケーキを持ってきた。宗教の仕事として。そのとき、号泣した棟方はなにを思ったか。かすかに残っていた絶望からの脱出方法がすべて潰えた瞬間だったのかもしれない。
主演の渡辺一志は初見だけれど、すばらしいキャスティングだった。工業地帯の撮影も良好で、一見の価値がある。