対話をするか、しないか 『銀のエンゼル』

このまま観ず仕舞いで終わるやに思われたこの作品を、なんとか劇場で観られたことを、まずは喜びたいと思います。鈴井貴之監督の3作目。賛否両論ありそうな印象がありますが、それはそれで、つまり、次回作があるという前提で今回をプロセスと捉えるなら、十分に楽しめました。
今回は、構図の取り方や、シーンのつなぎ方など随所が、非常に古典的、というか、小津的なのに驚きます。とくにガソリンスタンドの屋根のシーンは、まるで『東京物語』の温泉宿のシーンのようだし、主人公宅の廊下のシーンなど、実に低い位置にカメラを据えた場合が非常に多いのですね。それから、背景に工場の煙突も見えました。かなりの時間でカメラが固定されていて、あるいは動いていても対象が常に同じ位置にあるなどで、全体として落ち着いた感じが出ています。
思えば、小日向文世の父親像は、今日版の笠智衆と言えなくもありません。母親不在の家庭(入院しているだけだけど)という設定も、父親が他者に促されてはじめて一人娘と対峙しようとしているあたりも、小津映画っぽい。なんだか、村上ショージ東野英治郎のように見えてきました。
ではいったい、そこにどんな意図があったのか、というと、そこがちょっと分からない。なかには天井や上空からのぞいたようなカメラもあるし、カット数が多いわけでもない。台詞がボソッとしていて聞き取りづらいような演出も見られる。もっともコンビニという主要な舞台が、狭い空間だということで、構図の取り方に気を使ったようです。それは納得だけれど、納得できない部分もあります。
僕は映画を、スクリーンとの対話として捉えることが多いのですが、そうするとどうしても対話の相手がほしくなります。相手は人物でなくても、モノや風景であっても構わないのですが、ひとまずどんな視点で作品を観ればよいかという、とても大事な部分だと思います。
それの対話が、この作品では難しかった。まるで天井の監視カメラのような視点のシーンもあるし、主人公とまったく関係のない登場人物のシーンが随所に見られます。とくに監督と同じ事務所の面々は、往々にしてスクリーンから浮いており、監督の将来の作品に重大な課題を残したと思います。そんな状況で、いったいと感情を合わせたらよかったのか。わざと感情を合わせないように仕組んだのだとすれば、それでもよいけれど、しかしその意義があるようにも思えません。そもそもなぜ『銀のエンゼル』というタイトルなのか。
いろいろと書きましたが、過去の作品に較べると、ずっと整っているのはたしかで、東京から呼び寄せたキャストやスタッフはとてもよい仕事をしていると思います。小日向文世がすごくいい。この落ち着いた雰囲気のなかで、どうやって鈴井節を繰り出していくか、というところでしょうか。月並みですが、次回に期待です。