普通という究極

La déconstruction des idoles──アイドルの脱紺築さんの「モンスターの先祖返り〜モーニング娘。にとって5期とは何か〜」は読み応えがありました。僕自身もわりと近いことを考えていたこともあって、非常に興味深かったです。とくに、やっぱり僕も二番煎じの5期好きですから、そら総括なんて書けないだろうと思っていただけに、まいっちゃいました。すごいです。ローテンションだったのに、思わず何か書きたくなりました。
「先祖返り」と言われると、なるほどそうなのかもしれません。僕はひそかに、寺田氏には寺田哲学というものがあって、5期メンはそれを体現してみせるプロトタイプ的な位置付けなのだろうと思っていました。それも、必然的にそうなったのだろうと。寺田哲学というのが何かと言われると困りますが、少なくとも「普通であること」の美徳を説くものではないかと思います。糸井重里が「ベストスタンダード」という言葉を使いますが、あれに近いのかしらと。この日本という国のなかにおいては、組織がものをいい、組織が確立したときに最大の力を発揮します。そしてその組織のなかにあっては、個性は個性としても、「普通であること」が最終的には1番の強みになる。ということがしばしばあります。「普通」という言葉が曖昧であれば、「平凡」でもいいかもしれません。
ただ、それを体現するようなアイドルなんて、出現しようがないはずなんです。僕のいつか証明してみたい仮説に、「アイドルとして大成した人の出身地には海がある」*1というものがあるのですが、アイドルならばがっつく人という定理は、おそらく今でも変わらないだろうと思います。そんな状況で、どうして寺田氏が「普通」を強烈にアピールしているのか、背景については置いておくとして、それを言葉ではなくメンバーという形で実行に移すには、相当な体力が必要だったろうと。その体力というのが、ベストセラーの存在だったり、「4期まで」だったりしたんじゃないかと。そんなふうに思うのです。
その意味では、この夏から半年毎に、寺田哲学の理想形がどんどん近づいてくるような気がしております。ここまで来ると解釈が十人十色かもしれませんけど。個人的には、そんな普通という究極をどこまで表現できるのか、とても楽しみではありますね。

*1:海は狩猟の地であるということから、そこに住む人もまた狩猟的文化をベースとしているので、セックスアピールに長けている、と考えます