「参戦」に対する体験的私見

id:pouse:20040624さんの「参戦」に関する文章が面白いですね。何気なく使う言葉でしょうから、この機会に考えるのがよいと思います。で、僕自身がその言葉を使用したことがあるだろうかと調べましたら、3/22に一度だけありました。岩手さくらコンのレポートでした。たしかにハロプロ界隈のコンサート以外ではなかなか使う言葉ではないかもしれません。
僕自身の感じ方から書けば、ことそういうコンサートに限れば、さほど違和感はないし、後ろめたさも感じたことはないです。それが意識レベルの低さということであれば、その先のコメントはないのですが。もちろん「参戦」という言葉の捉え方は十人十色で、それを前提にすれば、必ずしも意識レベルやモラルの問題と言い切れないものがあるように思えてなりません。
僕の数少ない経験から書かせていただければ、娘。コンに限らず、ロックコンサート(ライブ、と書くほうが臨場感を得られそうですが)の類には、少なからない刹那的部分が潜んでいると思います。教祖を眼前にした信徒の様でもあり、幕末のええじゃないかのようでもあります(無論、想像で書いている)。客席は日頃の憂さを晴らす空間であり、ステージの上の恍惚の人物は心の拠り所であるわけですね。
娘。コンなら全席指定ですが、オールスタンディングだと大変です。おしくら饅頭ですし、飛びたくなくてもジャンプできます。もうそこまでくると、暴れたもん勝ちといいますか、ああこのまま逝ってしまっても後悔しないかなと一瞬思わせるだけの魔力が生まれます。あれがゆえに病み付きになりまして、僕は昨年、暴れすぎでメガネをひとつお釈迦にしました。余談ですが。
で(先方のコメント欄にもありますが)、その刹那的体験は、そうそう死ぬことのなくなった我々世代にとっての、死に対する仮想体験かも知れないなと思うわけです。あるいは、そうでありたいと願うに値する民俗的な体験。そしてその現場に訪れるという行為が、赤紙を手にした青年の出征を髣髴とさせているのではないかと。やはりいつになっても戦争といえば太平洋戦争で、花と散る特攻隊の美談が、「参戦」という言葉に与えている影響の大きさがあるのだろうと思います。
しかし、その場合の「参戦」には、戦争の意味合いが欠如している可能性があります。出征したきり、遺骨になって帰郷するまでの、途中のプロセスがない。言葉のニュアンスとして重んじられているのは兵隊や彼を取り巻く人々の心境であって、行為ではないようです。よって、「参戦」という言葉がすなわち戦争に参加することだから、何か対象に向かって暴力を働こうとしているという解釈まで、あまり悲観的にならずともよいように思いますよ。なんとなく回答している気がしませんが。
ただし、何事もTPOでありまして、コンサートでない場所に「参戦」するバカには怒ってよろしいと思いますね。この先は話題がそれるので、またあとで。