テクニックとは違う何かをつかむとき

先日、ここにしては珍しく松浦亜弥に言及したのですが、そのとき僕は「これまで必死に磨いてきたであろうテクニックとは違う何かを身につける時が来ている」と書きました。うまく表現できなかったのでお茶を濁しましたけど、端的にそれは「うたごころ」みたいなものですね。
かつて石川さゆり猪俣公章に弟子入りしたとき、幼くて(とはいえ中高生だったと思うが)演歌の世界を理解できないと感じた猪俣は、石川に「男はつらいよ」を延々と見せたといいます。歌が上手いだけでは人の心をつかめない。演歌歌手のいわゆる「ドサ回り」は、その壁を乗り越える修行の要素を含んでいるのでしょう。
人が老いるに従い涙脆くなるのは、物理的な要因ではなく、経験の蓄積ゆえなのだそうです。歌に艶が出てくるのも、それと同じこと。人間としての成長や経験が、とても大事なのですね。松浦にとって目下最大の課題が、「それ」なのだろうということを、先日は書いたと。昨晩のNHKの映像を見ていると、「それ」をつかみかけているようにも感じられます。だとしたら、これから半年ぐらいは、相当面白いですよ。
遠回りしましたが、僕はいま後藤真希に言及しようとしています。僕には、彼女は「それ」をなかなかよくつかんでいるやに見えるのです。テレビで何度か新曲を聴くと、音盤の音声よりも魅力的です。キャリアゆえか、年齢ゆえか。さすが先輩はひと味違います。
これだから人びとは、成長プロセスの魅力を愛してやまないのですね。そして僕も。でもこんなことを書くのは、やっぱりちょっとおっさんかしら。