4月の3連休は映画三昧

ここのところ忙しくて、気がついたら3週間も映画を観ていなかった。いろんなところに出かけすぎて(どれも半分仕事)、いい加減に体が悲鳴を上げたので、思い切って連休をいただきました。ここぞとばかりに、映画館に入り浸る所存。ということはやっぱり出かけるわけで。先日買ったテレビがようやく家にやってくるというのに。

軽いタッチでも堅実ですっきり 『ダーリンは外国人

このシリーズ本を置いていない本屋を僕は知らないなあと思いつつ、いつも素通りしている。が、あの表紙の世界そのものがスクリーンにあった。
なにより、肩肘張らずに観られるところがいい。テレビドラマの延長で映画化したものを除けば、なんの不安もなく気楽に観られる作品というのは意外と少ない。とくに採点表などつけている僕のような映画ファンにとっては、まずこの作品が、今年のベスト作品にならないだろうというのを承知で、それでも楽しかったと思えるというのは、実はとても大事だ。それこそ映画なのではないかと、なにか矛盾してそうなことを言ってみたくもなる。
そんなリラックスした感じではじまって、井上真央の抜群の安定感に安心し、謎の新人・ジョナサン・シェアの「ダーリンっぷり」にいっそう安心する。その状況で、「ちょっと離れてまたくっついて」という恋愛映画の王道を行かれると、不覚にもほろっとさせられ、よく出来た脚本だったのだなあと、映画館を出てから気付かされる。やられた。
繰り返すが、井上真央がやっぱりいい。多才ではなさそうだけれど、"ダーリン"の言う、真面目で溌剌とした感じがよくはまっている。冒頭やラストの日本語訛りの英語がまた、雰囲気たっぷりでいい。ほか、大竹しのぶはいぶし銀。そして国仲涼子の花嫁姿が素晴らしい。なんというか、必要以上にキュンとする。

また最後にマジックを出したか 『海の金魚

いつから鹿児島三部作などという言葉が使われるようになったのか。まだ最後の作品を制作できる保証はないんじゃないのか。もっとも配給側はやる気満々と見えるが。
その三部作の1作目『チェスト!』は、悪くはないがよくもない、お世辞にも垢抜けない作風をよく観るか悪く観るかのギリギリだった。最終的には、子供たちの素直さと、ラストになんとなく帳尻を合わせる雑賀監督のマジックによって、さわやかな作品として記憶に残ってしまった。
今回も、いや今回はいっそう、垢抜けない。脚本がよくないという評判は聞いていたが、たしかにかなり厳しいことになっている。全体的にまったくスマートでないうえに、いかにも特定のシーンからの逆算でしたとしか思えない行動を演者に強いる。あまりに都合のいいストーリー展開。ヨットは金持ちだけの趣味じゃないと言わせておいて、部活でもない高校生がお揃いのジャケットで決めるブルジョワさをどう説明するのか。そして鹿児島弁を使うのが、久しぶりに故郷に帰ってきた男(高嶋政宏)だけというのがまた不可思議。なにかのメッセージなのか。
なのに、だ。今回も雑賀マジックは繰り広げられる。ラスト10分、ヨットレースの終盤、どこで身につけたのかまったく意味不明の秘技で無事ゴールを果たすところだけ、妙に新鮮に意表を突かれた。あれがなかったら、僕ひとりしかいなかった劇場から、僕までいなくなっているところだった。
ところで、入来茉里の初主演作である。先日、プロフィールを見たくて検索していたら、ブログのリンクが紫色になっていた。おやおや、どこで見たのか思ったら、すでに我がPCにお気に入り登録されていた。チェックが早すぎて忘れていた次第。ともかく、あの可愛さがなかったら、本当につらい映画だった。監督が精一杯アイドル映画的に引っ張ろうとしていたなら、とにかくお疲れ様といいたい。

監督の胆力を感じる 『誘拐ラプソディー

それにしても、よく公開まで漕ぎ着けたものだと、誰だって思うのではないか。緊急代役の榊監督、カット数がえらい多い。しかもたいていのカットには大量の共演者たちが。配給の角川もすごいけど、やっぱり監督の胆力には恐れ入った。
ストーリーは冒頭からコメディタッチ。とはいえ、とことんコメディが暴走するかといえばそんなことはない。まず、高橋克典がそんなに哀れに見えない。華が抜けないのだ。それから、案外、誘拐が淡々と進んでいく。このまま御用になったら映画にならないよな、というぐらいに淡々と。
しかし、それらが逆に、後半に活きていたようにも思う。高橋克典がどんどん情けなく、それでいて人間味のある人物になっていく。誘拐した子供が、彼の魅力をどんどん引き出す。そして、誘拐劇はいつしか、ある少年の冒険へと姿を変えていく。と同時に、単調だったストーリーが多様な展開を見せる。高橋とYOUのやりとりは、作品にぐっと深みを与えて、いい。
地味だけどいい作品だった。いい作品だけれど、いかんせん地味だ。それはたぶん、なぜ高橋が誘拐犯でなくてはならなかったのか、という違和感を完全に払拭できなかったからなのだと思う。彼自身はすごくいいのだけれど、役柄との必要十分条件が感じられない。それは固定観念かもしれない。たとえば僕が日本人でなくて、字幕で、外国映画としてこの作品を観たら、魅力的な小品だった素直に言えたような気がする。映画を観るというのは、難しくもある。

そして僕らの毎日は 『ソラニン

90年代後半、この国はいちど壊れた。僕は中学と高校に通っていた。あのとき、パラダイムに断絶が起こった。常識が常識でなくなっていった。無力だった。なにをしていいのか分からないけど、なにかしなければならない気持ちでいっぱいで、「それでいいのか」といつも自分に問いかけていた。その自問の結果、僕はいちど就職を諦めて大学院に進み、その後の自問の結果、修士を取ったら大学を出なければならないと思って、就職した。仕事を選ぶときもつねに、「それでいいのか」だった。でも働いてみると、そんな自問をする余裕はなかった。
きっと、下の世代はもっとスマートに生きている。「それでいいのか」というのは無駄な抵抗に過ぎない。時代と寝られないからそうなる。無駄な抵抗は決して無駄な時間ではないと思うが、僕らがうじうじしている時間の分だけ、彼らはもっと身につくことをしていたに違いない。ただし、一を知って十を知るような人がずいぶん減った。そんなことを書いたら、上の世代に笑われるかもしれないけれど。
原作者・浅野いにおは僕と同い年だ。世代の感覚にも、中央と地方の時間差はあると思うが、それでもこの作品の世界には、僕の学生時代と同じの臭いがする。音楽で世界を変えたいわけではないけれど、働くことに希望は見出せず、そんな自分に「それでいいのか」と問うてうじうじしている。そもそも仕事はなかなか見つからない。時代と折り合いをつけて、観念することができない。だって、時代のなにと折り合いをつければ、生き易くなるのか分からない。
アイデン&ティティ』や『BANDAGE』が「時代と寝た」映画なら、本作『ソラニン』は「時代と寝られなかった」映画であり、『リンダリンダリンダ』は「時代を観念した」映画であるといえるだろう。『ソラニン』の彼らはあまりに中途半端で、劇場にいた高校生たちには、理解できないぐらい鬱屈して見えたかもしれない。でもそれが、ある時代の紛れもない姿だった。
作品は、丁寧な描写で無駄がない。スタッフロールで脚本が高橋泉とわかって納得した。ただのバンド映画だと思って観はじめたし、そうすることだってできたはずだが、しっかりと群像劇にしたあとで、芽衣子(宮崎あおい)が歌うから、説得力が強い。宮崎あおいはさすがの演技力で、観る者を一瞬で引き込む。弛緩した表情から、ピックを持つ手の緊張感まで、多彩な表現は余人をもって替えがたい。ただ、芽衣子がなぜ軽音楽サークルに入部したのかよく分からなかった。それから、贅沢を言えば、堕落したところから奮起する過程が、もう少し丁寧に描けていれば。映像もいい。

こんなにも脚本と演出と 『半分の月がのぼる空

病気、もしくは入院から生まれるボーイ・ミーツ・ガールはたくさんある。たとえば永田琴監督『Little DJ〜小さな恋の物語』が代表される。よって、新鮮味はない。それなのに、この作品はいい。不覚にも、グッときてしまった。脚本と演出がいいと、こんなにも作品が映えるのだ。
現代と過去。鈍感と言われるかもしれないが、このふたつの時間について、実はまったく自覚的でなかった。気付かなかった。ふたつの時間が重なって、まるでパラレルワールドのように存在し得る。そして交差する。その重ね方、交差のされ方が、本当に見事。この手のストーリーに馴れているつもりで、完全に術中にはまった。演劇や宮沢賢治との交差も光っている。脚本に脱帽といったところだ。
また、これまでの入院をもとにしたストーリーのように、少年少女の死という悲哀を頂点とせず、ヒロインが大人まで生かされて母親になってから鬼籍に入る。彼女には子供もできる。それは、美化された思い出とは限らない。ナルシズムではなく、狭い世界の物語でもなく、きちんと大人の生き方も盛り込まれている。おそらく、池松壮亮なり大泉洋なりに、美しさを求めなかったことにも一因があろう。
演出もいい。忽那汐里の大人になるときの見せ方の上手さなど、ストーリーへの当てはめ方がいい。池松壮亮大泉洋も、作品への溶け込み方が見事。これは推測だが、原作以上の深みをもたらしているのではないか。映画を観る喜びに、本当に久しぶりに触れた気がした。

でも、男が要らないわけではない 『カケラ』

女の子と女の子の物語だ。ある日、リコはハルに声をかける。リコにとっては、気になった人を気になっただけで終わらせないだけだという。男との自堕落な生活を送っていたハルは、なんだか抜け出せるような気がした。ハルとリコは気が合ったし、これまでの生活から抜け出すことは出来た。リコは、男の女の違いは、動物園に行くか行かないかという程度の差でしかない、という。ハルはそうかもしれないと思う。でも、ハルはリコのように、女の子を好きだと公衆の面前で言ったりできない。
どの感想を読んでも、ハルの後悔については触れられていない。ハルはリコとの日々に満足しているのだろうか。リコの嫉妬深さに疲れてもいる。ハルには、触れないほうがいい世界に触れてしまった、元に戻れない感覚が、リコへの愛情と同じぐらいの強さで芽生えているのではないか。と思った。
映画では、男は実に情けない。でも、リコが父親にだけは愛情があるように、父性をいっさい不要だとすることはできない。監督はそれを自覚したうえで、女の子と女の子の映画を撮ったのだと思う。ラスト、ふたりが久しぶりに再会するようなシーンで、ふたりが交錯する前に、突然の発狂音とともに暗転する。リコの強さは狂気でもあるのかもしれない。
女の子による女の子らしい映画だった。かわいらしいのではない。女子校の女子みたいなもので、男子が見なくていいものも映っている。「らしさ」を求めた結果の演出はスマートだけれど、男子の生き方に影響させるだけの鮮明さまではいかなかった。とはいえ、監督は20代なのか。すごい才能が出てきたことは間違いない。満島ひかりの快進撃は続き、中村映里子は鮮烈だ。