ペテルブルクでしたかったこと

この街で、観光ガイドに書いていない「あること」をしてみたかった。
前段が長くなるが、少しお付き合いいただきたい。
4年前、スペインに出かけた。最終日に油断した僕は、たぶん二十歳ぐらいの青年に首を絞められ、気を失った。意識が遠のく直前に、フリースのチャックを開けられて、財布を取られそうになるのが見えた。為す術はなかった。
パスポートを盗難された僕は、親切なルーマニア人によって事件調書を手に入れるに至ったが、それでは飛行機に乗ることが出来ず、マドリッドで延泊を余儀なくされた。週2便しか出ていないキャリアだったので、たぶん3日間ぐらいは余計に滞在しなくてはならなかったはずだ。しかしもう観光する気にはなれない。近くの大きな駅なら安全だからと、一日中をそこで過ごしたものの、いよいよ耐え難くなってきた。
そんなときに、ふと思い立ったのが、映画だった。
マドリッドの中心街にある古めかしい映画館で、スペイン語のサッカー映画を観た。字幕はないし、英語の字幕は役に立たない語学なので、なんとなくストーリーを想像するしかなかったが、単純なコメディで面白かった。『El Penalty』という原題だった。
以来、次に海外に行ったときも映画館に足を運びたい、と思っていた。
やっぱり長くなったが、話をロシアに、レストランバクーに戻そう。
食事を済ませて会計のとき、バクーの美人で親切なお姉さんに、映画館がどこにあるのか聞いてみた。そんなことは旅行書のどこにも書いていないのだ。彼女はとても丁寧に、僕の旅行書の地図とペンを持って、説明してくれた。この界隈には2箇所あって、近いほうより、少し歩いたところのほうがいい映画館だということ、近くを通れば、とてもきれいなのですぐに気付くことなど、教えてくれた。
ロシアの人にこんなに親切にしてもらったのは初めてだ、と思った。初日のバスのおばさんもいい人だったけど、まるで比にならない親切さだ。感情労働の大切さを見損なったレーニンの国とは思えなかった。なんていい店なんだ。見れば、あのお姉さん以外の店員も、なかなかきびきびとしていて、見ていて気持ちがいいではないか。

(バクー付近のネフスキー通り。どちらの写真に写る建物もデパートだ。右の写真にはトロリーバスも。)
店を出て、その映画館を探して歩いた。近いほうの映画館は名前も教えてくれていた。こちらは、ネフスキー通りを少し歩いたら、通りに面してすぐに見つかった。そこからさらに歩く。降りしきる雪のなか、かなり不安になりながら、お姉さんを信じて、あるいはちょっと散歩できた喜びも持ちながら。何分歩いただろうか、たしかに、華やかな建物が見つかった。いわゆるシネコンである。ここならいろんな映画があるから、時間にあったものを選べばいいだろう。
しかし、映画は夜でも観られる。日中しか空いていない博物館を先に見ておこう。かなり夕方に近づいていたが、さらに歩いて、モスクワ駅から地下鉄に乗った。ややこしいが、モスクワ行きの鉄道が走っているのでモスクワ駅というらしい。ほかにもフィンランド駅やバルト駅などというものもあるらしい。ちなみにモスクワ駅は、ペテルブルクのなかでもいちばん大きな駅だと思う。

(凍てつくネヴァ川。この街は陸地といくつかの島で構成されていて、河や運河がたくさんある。)
地下鉄に乗って、宿の前を通り過ぎ、エルミタージュを過ぎ、ネヴァ川を渡った。すでに日が暮れてきている。旅行書に書いてある閉館時間まで少し時間はあるが、ゆっくりも出来ない。急いで向かったのは、クンストカメラ。日本語で人類学・民族学博物館という施設だ。帝政時代のピョートル大帝のコレクションらしく、世界中のさまざまなもの、たとえば日本人の衣装とか、さまざまな標本が展示されていて、資料を見る限りではかなりスパイシーである。
街灯がついた暮れなずむ街の光と影のなか、ようやくクンストカメラについた。確固たる標識がないので、建物を特定するのがかなり難しかった。おまけに暗い。入り口も暗い。観光客が列を成している。ん、なんかへんだ。列はいつまで経っても動かない。いかも、僕の後ろには誰も列を作ろうとしない。僕はいつまでも最後尾だ。
仕方がないので列から外れて入り口を見に行った。閉館している。らしい。もしかして人数制限しているだけなのかも、と思ったが、館員が近くにいるふうでもなく、チケットカウンターも閉鎖されていたので、あきらめるほかなかった。僕のようにあきらめがたい観光客が、一縷の望みに賭けているだけだった。

(左がクンストカメラ。この街は寒いが、道が凍っていることはほとんどない。除雪なのかロードヒーティングなのかはよく分からない。)
本当はそばにあった暖かな光のレストランにでも入りたかったが、今宵は映画がある。もと来た道をとぼとぼと歩いた。クンストカメラへの道すがら、バスのルートをなんとなく確認しておいたので、今度はバスで映画館まで移動した。こちらのほうが無駄な徒歩を減らせて、時間も短く、暖かい。もっと言えば、地下深く穴を掘ったこの国の地下鉄はちょっと苦手だ。