危険なトランジット

噂には聞いていたが、アエロフロートパイロットのテクニックは素晴らしかった。酷寒の地の雲は計器を凍らせてしまうのだろう。晴れた空にまだらに浮かぶそれらを、ソ連空軍上がりの氏(想像)は、大きな期待を左右45度に傾けながら避けていく。傾くと広がるモスクワのオレンジ色の夜景が美しい。土地が広いからなのか、共産国家の名残なのか、高層ビルのあるビジネス街の風景はなく、背の低い建物を街灯が照らしていた。
芸術的な着陸には、シナトラの「マイウェイ」を合わせてみた。敵国のわずかに青の残る空と街のオレンジに妙に合うのは、シナトラにとっては皮肉だろうか。ここまでは優雅であった。問題は訪れた。
経由地モスクワのシェレメチェヴォ空港にはターミナルがふたつある。アエロフロートの国際線は第2ターミナルに着陸する。これを利用してヨーロッパに向かう人びとは、同じターミナルで待ちぼうけしていればよいのだが、国内線に乗り換える者はターミナル移動をしなくてはならない。
シェレメチェヴォ2では、航空会社の日本人社員が出迎えてくれたし、トランジットの方法もガイドブックどおりに上手くいった。ただし「4時間以内のトランジット専用」の通路が、現地にとって特殊な乗客のためにあるためか、あまりにうらぶれていて、職員通用口なんじゃないかと誤解しそうになる。その不安は、問題の兆候だった。

(出発数日前にプレゼントされた神田明神のお守り。すがれるのは神だけなのか。)
特殊なトランジットゲートには、阪急交通社のツアー客がいた。これまでの困難を乗り越えた僕の状況をまったく理解してくれなさそうな、いわゆる一般の、品格の備わらないほうのヨーロッパ観光客の風情である。ロシアという名の困難が、日本人添乗員のサービスの悪さによってもたらされていると勘違いしているような連中である。彼らのほか、先ほどの飛行機のすぐ後ろの席にいたヨーロッパの女性がぽつんと、いた。
パスポートコントロールを抜けて、ターミナル移動のためのバスを待った。やたらと待った。予定より早く着陸した意味が完全になくなるほど待ったら、黒いコートを着込んだ現地人が現れてなにか言っている。阪急のスタッフが税関が来ないのだと述べると、彼はコートを脱いで見せた。ワイシャツを着た、税関だった。そう、この国の職員はコートを正装の一部としているらしく、どの立場の人間なのかさっぱり分からない。ともかく男はなにか申告したいものがあるのかと尋ね、阪急さんがそれを訳し、僕がそのおこぼれにあずかり、なにもないと分かると去っていった。さらに待ちくたびれると、バスが来た。
バスには10分以上乗せられた気がする。ターミナル間の離れすぎた距離に、スパイを無用に移動させないようにする国家の意気込みを感じる。空港内を走っているというより、どこか荒野を駆け抜けている。道路が明らかに凍てついているが、屈強な運転手は手加減しない。しかし乗客に不安を与えない確かな技術の持ち主でもあった。
やってきたシェレメチェヴォ1でも、裏口に通された。ここではじまるのが、厳重な全身チェックであった。「4時間以内のトランジット専用」のおかげで荷物は空港側が次の飛行機に載せ替えてくれているので身軽だが、靴を荷物としてX線に通すように要求された。靴を脱いで、食品工場の視察で支給されそうなビニールの足カバーをつけて、身体検査のゲートをくぐると、検査官の手でボディチェックである。胸ポケットのものを出せという。タバコだ。箱の中を見せろという。なにか爆弾が入っているかもしれないのだろう。仕方ない、スパイなんだから。
およそ歓迎されていない検査場を越えると、出発ロビーだった。阪急さんになんとなく従って出発口に向かった。屋台のような店がいくつかあって、バーもある。寄り道したくなるが、搭乗時間をとうに過ぎている。この空港の搭乗口には、出発地や時刻を示す掲示板がない。成田で示された場所にも掲示板がなかったが、それ以上に、人がいなかった。路頭に迷った一行に気付いた空港職員と阪急さんが話した結果、ゲート変更があったことが分かった。
ゲート変更。特殊なトランジットだったせいでチェックインがなく、知らされなかったのであった。個人旅行の怖さが一気に出てきた。言葉の分からない国で、ひとりでゲート変更を知り、そこにたどりつく自信はまったくなかった。僕は海外旅行で日本人に遭遇することをひどく嫌う。スペインでも日本人が働く安宿に決めようとした友人にきっぱり拒否を告げた。中国人ならは民族の団結力を示すところだろうが、郷の掟に従わなければ、わざわざ海外に出向いた意味がない。しかし、あれだけ忌み嫌っていた阪急のツアー客たちに救われた格好だ。ここで僕を正しい場所まで連れて行ってくれなければ、乗り継ぎの飛行機に乗ることが出来なければ、モスクワで取り残されていたのだ。それはビザに書かれている内容と異なる。ここはロシアだ。公安に連行されて、どうなってしまうか分からない。
5年前のヒースローでの出来事を思い出していた。
大学院を修了する直前、友人とヨーロッパに出かけた。なかなかチケットが取れず、ようやくロンドンから入ってマドリッドから抜けるルートを確保した。成田では、ロンドンのヒースローでの乗り継ぎもチェックインしたと聞いていたので、ヒースロー到着後、出発ロビーで待っていた。いちおう確認しておこうと思ってエールフランスのラウンジの受付に行っても、エコノミークラスのため相手にしてもらえず、仕方なく搭乗口で待った。搭乗時間になって、事態が発覚した。チェックインされていなかったのだ。空港職員は、この飛行機に乗せるわけにいかないという。チェックインのためにはパスポートコントロールを通って、カウンターに行かなければならないが、そんな時間はない。もうこの飛行機に乗ることは出来ないと。
やむなくヒースローで入国審査をし、ターミナルの異なる大韓航空エールフランスのカウンターをたらいまわしにされ、空港のインフォメーションに仲裁を求めた。カウンターのおばちゃんは決して親切でなかったが、チェックインしていない荷物が飛行機に乗るはずがないというので、懇願して荷物を取り戻した。もうエールフランスは空の上だ。幸い、ビザなしで入国できる国だったので、ロンドンで1泊し、600ポンドもするユーロスターのチケットを入手して、1日遅れでパリにたどりついたのだった。
サンクトペテルブルク行きのシャトル便へはバスで向かった。中型の飛行機はガラガラで、乗客の半分以上は日本人だった。日本人は飛行機の中央から後方に集められていた。座席についた僕は、安堵以上に、これまでの危機とこれからの困難を思っていた。早くも落ち込んでいた。ダメになりそうだった。いっそ不法滞在ということで強制送還されたほうが安全なんじゃないかとさえ思えてならなかった。

(度を越えた困難につき、この間の写真が1枚もない。写真のシャトル便は帰りに撮影したもの。形はまったく同じだが、往きは真っ暗だった。)
シャトル便のなかは束の間の安息だった。阪急さんが自分の客たちに、口に合わないだろうけど我慢するように言っていた軽食は、少なくともロンドンの宿で出された朝食よりと同等か、いくぶんマシな気がしていた。そして、初めて隣の席の客と話した。阪急の客だと思っていた親子だが、実は個人旅行だそうだ。モスクワを旅行していて、オプションで1泊2日、ペテルブルクを楽しむのだという。ツアー客でない日本人の登場に、少し気持ちが落ち着いた。でも、彼女たちには空港に迎えが来るのだそうだ。当たり前だ。まともなホテルに宿泊するのなら、送迎の予約ぐらい、ないほうがおかしい。
僕は宿までの交通手段を迷っていた。大荷物を背負って地下鉄に乗るのは避けたかったが、イゴールは地下鉄の駅からの道のりしか教えてくれない。彼に白タクに乗るという選択肢はないのだろう。1時間もすればペテルブルクの地を踏む。無事に到着できるのだろうか。