プラカードを背負った子供の生きる道

("はてなかしまし物語::石川梨華さんモーニング娘。卒業"の文章)
いま、暇を見つけて佐藤忠男著『完本 小津安二郎の芸術』(isbn:4022642505)を読んでいます。そのなかで佐藤は、ベネディクト・ルースが日本は「罪」の文化ではなく、「恥」の文化で成り立っていると主張したことを受け、小津作品の登場人物たちも、常に他人の目を気にしながら、恥をかかぬように振舞っていると指摘しています。
恥をかかずに生きられるということは、とても器用なことです。恥のなかで生きる人びとは、器用に振舞いたいと思う一方で、そのような窮屈さから抜け出せたらどんなによいことかと思うものの、「交わしたはずのない約束に縛られ、破り捨てようとしても後ろめたくなる(キリンジ『Drifter』)」のが世の常です。
小津作品のなかにも、器用に生きられない人物が登場します。子供です。『生まれてはみたけれど』の一場面を通じて、佐藤はこう述べています。

はじめのほうの場面で、東京の郊外の野原で、子供たちが数人、遊びまわっている。そのなかの小さな子供の一人が、背中にプラカードのようなものを背負わされてる。そこにこう書かれている。「おなかをこわしていますから、たべさせないでください」。
(中略)このプラカードには、それを書いて子供の背中にくくりつけてくれた母親の愛情がこもっているにちがいない。と同時に、そのような母親の愛情は、子供にとっていかに恥ずかしいものであるか。ああ、人間はこのようにして幼くして恥をかき、恥をかきかき成長してゆくのである。そして、その恥を肯定し、その恥から自分の心を防衛するものがユーモアなのである。(P77-78)

美しいものばかりを撮り続けたといわれる小津は、この恥をかきかきする姿にも、ある種の美が存在すると考えていたのかもしれません。いま、その恥を飛び越えてしまった人が氾濫しています。誰にも迷惑をかけていないと言われると取り付く島もないのですが、一言だけ言えるとすれば、彼らは、美しくない。生き様の問題です。たとえきれいであっても、美しくはない。早川義夫の弁を借りれば、「格好いいことは、なんて格好悪いんだろう」。
石川梨華という偶像にはそんな生き様の美しさがあると、僕は思います。
思えばずいぶん歌が上手くなったものですが、それもかつてと較べてこその話で、歌わせても、演技をさせても素っ頓狂でドン臭い。洋服のセンスが悪く、仲間からキショイと言われる。人格は3歳までに決定するという説がありますが、これらはすべて天性によるものなので、受け入れるしかありません。だったら黙って立っていればいいのに、美人なんだから、と思わずにいられませんが、それでどんな魅力が引き出されようか。無茶苦茶なことは、ロックなんです。たぶん。
それでも彼女には、どうやら自覚があるらしく、つまりはそれを恥じらいといいますが、天性の生真面目さでなんとかせんと奮闘します。「ちゃんチャミ」を聴いていて感じるのですが、くどいぐらいに真面目。ただ、その「くどい」というのがミソで、なにかにつけて努力が空回りする。それは本人にとってはディレンマかもしれないけれど、われわれにとってはユーモアです。その姿はまるで、プラカードを背負った子供のようなものなのです。
そのことさえも自覚し、恥じらいながら、それでもなおひたむきに前進し続ける。その生き様が、美しいと思うのです。しかしいったい彼女は、何に向かって行進しているのだろう。
ひょっとすると、彼女は前進した先に何かがあると思っていたのかもしれません。しかし、「何かある」と思うところには、たいてい何もないものです。そうではなくて、その「何か」に向かわんとする、その姿が、意気込みが、プロセスが、一方で滑稽なのであり、他方で、娘。楽曲を地で行くような、感動的なまでの凛々しさと頼もしさなのです。
僕は、映画『アイデン&ティティ』のなかの、ディランの言葉を思い出します。
「やらなきゃならないことをやるだけさ。だからうまくいくんだよ」
あるいは、「豆腐屋はがんもどきぐらいなら作れるが、とんかつは作れない」という小津安二郎の言葉も浮かんできます。石川梨華はまるで豆腐屋です。やらなきゃならないことをやるだけ。それに気付いたから古巣を後にするのだろうと、僕は勝手にそう考えることにしました。